Share

第2話 温かいものを

Author: 伊桜らな
last update publish date: 2026-10-28 20:10:59

差し出されたタオルを、紬は両手で受け取った。

「どうぞ。お荷物は、こちらに」

先ほどの女性従業員が、大きな紙袋を広げてくれた。厚手の、持ち手に紐のついたものだった。

怜司が破れた袋をその中へ移そうとして、ふと手を止める。

「触っても構いませんか」

紬は顔を上げた。

勝手に中を見ず、返事を待っている。

「……はい。すみません」

濡れた着替えとエプロンが移される。最後に丸い缶を持ち上げた怜司が、傾けないよう両手で支えた。

「これは、そのままで?」

「はい。中に、型が入っていて」

「お菓子の?」

紬がうなずくと、怜司は缶を袋のいちばん上に置いた。

女性従業員に案内されたのは、ロビーの奥にある小さなラウンジだった。入口から直接見えない、壁際の席。怜司は紬が座るのを待ち、向かいの椅子を引いた。

濡れたコートを脱ぐと、寒さが増した。

肩に力が入る。

「こちらも、お使いください」

女性従業員が膝掛けを持って戻ってきた。

紬は受け取ろうとして、自分の袖口から雫が落ちるのを見た。椅子の端にも、濃い染みができ始めている。

「あの、やっぱり、立っていたほうが」

「替えのカバーがありますから」

女性は静かに答えた。

「髪も、拭いてくださいね」

責める様子が少しもないことが、かえって落ち着かなかった。

紬はタオルを髪に押し当てた。柔軟剤ではない、清潔な布の匂いがする。

「何か、食べられそうですか」

怜司に聞かれ、反射的に首を振りかけた。

そのとき、胃が小さく鳴った。

聞こえたかもしれない。

紬はタオルを握り締めた。

「……少しなら」

「苦手なものや、食べられないものは」

「ありません」

怜司は近くにいたスタッフに、スープとパンを頼んだ。

それから水の入ったグラスを紬の前へ寄せる。

「急がなくて大丈夫です」

何を、と聞き返しそうになった。

食べることなのか、話すことなのか。

怜司は携帯電話を取り出したが、画面を一度見ただけで伏せた。

紬の事情を尋ねることもなく、水を一口飲む。

沈黙に耐えられなくなったのは、紬のほうだった。

「あの。お仕事中だったんじゃ」

「今日は、もう終わりです」

「でも、帰るところでしたよね」

「ええ」

引き留めている。

紬が膝掛けを外しかけると、怜司の視線が動いた。

「まだ、食事が来ていません」

「こんなにしていただく理由が、ないので」

言ってから、きつい言い方になったと思った。

「すみません。そういう意味じゃなくて……」

「理由が必要ですか」

問い詰める声ではなかった。

紬は答えを探した。

知らない人に食事をごちそうになる理由。高価そうな椅子を濡らしてまで、座っていてよい理由。

説明できなければ、あとで困る。

「私、今、すぐにはお返しができません」

怜司は少し黙った。

その間に、白い皿とスープカップが運ばれてきた。湯気と一緒に、玉ねぎの甘い匂いが広がる。

「では、これはホテルからのサービスということで」

スタッフが離れると、怜司が言った。

「今夜、雨宿りをされたお客様への」

「……泊まってもいないのに?」

「まだ、何も召し上がっていませんね」

紬は思わず彼を見た。

怜司の口元が、ほんの少し緩んでいた。

どう返せばいいかわからず、視線をスープへ落とす。

「いただきます」

小さく言って、スプーンを持った。

指がこわばって、うまく動かない。縁ですくい、息を吹きかけてから口へ運ぶ。

温かかった。

舌に触れ、喉を通って、空っぽだった胃へ落ちていく。

二口目を飲もうとして、手が止まった。

カップの中に、雫が落ちた。

紬は慌てて顔を伏せた。

「すみません」

タオルで目元を押さえる。

泣きたくなかった。親切にされた途端に泣くなんて、もっと何かをしてほしいと言っているようで嫌だった。

向かいから、紙ナプキンがそっと差し出された。

怜司は、理由を聞かなかった。

紬はそれを受け取り、しばらくカップを見つめていた。

スープを飲み終えるころには、指先に感覚が戻っていた。

パンも一つ食べた。もう一つ勧められたが、それは断った。

食べすぎると眠くなりそうだった。

ここを出てからのことを、考えなければならない。

紬が膝の上でタオルを畳んでいると、怜司が尋ねた。

「今夜、泊まるところは決まっていますか」

「駅のほうで、探そうと」

怜司はガラスの向こうを見た。

雨は、まだ強かった。

「このホテルに、部屋を用意できます」

紬はすぐに首を振った。

「それは、無理です」

「代金のことなら――」

「食事だけでも、十分です。これ以上は」

声が大きくなり、紬は口を閉じた。

怜司は椅子の背にもたれず、紬を見ていた。

「わかりました」

断られたことに腹を立てた様子はなかった。

「ほかの場所を探すのであれば、お手伝いします。ただ、今夜はもう、あの雨の中を歩かないほうがいい」

紬は足元の紙袋を見た。

明日の面接で使う服も、濡れている。

泊まる場所が見つかっても、朝までに乾くかはわからない。

「……一晩だけでも、いいんですか」

「もちろんです」

紬は顔を上げた。

「明日には、出ます」

怜司はうなずいた。

「では、今夜のことだけ決めましょう」

明日の行き先までは聞かれなかった。

紬は畳んだタオルに手を置き、深く頭を下げた。

今夜は横になって眠れる。

そうわかった途端、まぶたが重くなった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • あの日、あなたが選ばなかった私へ   第3話 明日の行き先

    目を覚ました瞬間、遅刻したと思った。紬は上体を起こし、見知らぬ部屋に息を止めた。白い寝具。厚いカーテン。枕元の小さな時計。午前六時十二分。階下からミキサーの音が聞こえない。焼き始めた生地の匂いもしない。代わりに、かすかな空調の音がしていた。昨夜のことを、少しずつ思い出す。雨。破れた紙袋。温かいスープ。久世怜司という人。紬は布団の端を握った。本当に、泊めてもらってしまった。部屋へ案内してくれた女性従業員は、浴室の使い方を説明し、濡れた服を乾かすための道具まで用意してくれた。ベッドに入る前は落ち着かなかったのに、横になると、次に気づいたのが今だった。枕元に置いた携帯電話を手に取る。借りた充電器のおかげで、電源は戻っていた。面接は十時半。まだ間に合う。紬はベッドを下り、浴室に掛けておいたブラウスを確かめた。袖口に少し湿り気が残っているが、着られないほどではない。服を整え、洗面台の前で髪を結ぶ。鏡に映る顔は、昨夜より血色がよかった。眠っただけで、こんなに違う。そのことが、少し怖かった。もう一晩、と頼みたくなる前に出なければ。便箋は、机の引き出しにあった。『昨夜は大変お世話になりました。食事も、お部屋も、ありがとうございました』そこまで書いて、手が止まる。代金は必ず返します、と続けようとして、ペン先を浮かせた。いくらなのかも知らない。いつ返せるのかも、今は約束できない。紬は代わりに、自分の名前と携帯電話の番号を書いた。便箋を折り、借りたタオルの隣に置く。紙袋を持ち上げる前に、丸い缶の蓋を開けた。昨夜、洗って水気を拭き取った型が並んでいる。鳥の型を指でつまみ、角度を変えて見る。錆びてはいなかった。蓋を閉じ、荷物をまとめた。忘れ物がないか、部屋を一周する。最後に、乱れた布団をできる限り整えた。扉が閉まる音は、思ったより静かだった。フロントへ鍵を返すと、従業員が画面を確認した。「朝食のご用意がございますが」「いえ、もう出ますので」「さようでございますか。少々お待ちいただけますか」紬は紙袋の持ち手を握り直した。何か、不備があったのだろうか。部屋に残した手紙は、見つけてもらえるだろうか。考えていると、背後から声がした。「おはようございます」振り返る。怜司が、ロビーの奥から歩いてきた。昨夜とは違

  • あの日、あなたが選ばなかった私へ   第2話 温かいものを

    差し出されたタオルを、紬は両手で受け取った。「どうぞ。お荷物は、こちらに」先ほどの女性従業員が、大きな紙袋を広げてくれた。厚手の、持ち手に紐のついたものだった。怜司が破れた袋をその中へ移そうとして、ふと手を止める。「触っても構いませんか」紬は顔を上げた。勝手に中を見ず、返事を待っている。「……はい。すみません」濡れた着替えとエプロンが移される。最後に丸い缶を持ち上げた怜司が、傾けないよう両手で支えた。「これは、そのままで?」「はい。中に、型が入っていて」「お菓子の?」紬がうなずくと、怜司は缶を袋のいちばん上に置いた。女性従業員に案内されたのは、ロビーの奥にある小さなラウンジだった。入口から直接見えない、壁際の席。怜司は紬が座るのを待ち、向かいの椅子を引いた。濡れたコートを脱ぐと、寒さが増した。肩に力が入る。「こちらも、お使いください」女性従業員が膝掛けを持って戻ってきた。紬は受け取ろうとして、自分の袖口から雫が落ちるのを見た。椅子の端にも、濃い染みができ始めている。「あの、やっぱり、立っていたほうが」「替えのカバーがありますから」女性は静かに答えた。「髪も、拭いてくださいね」責める様子が少しもないことが、かえって落ち着かなかった。紬はタオルを髪に押し当てた。柔軟剤ではない、清潔な布の匂いがする。「何か、食べられそうですか」怜司に聞かれ、反射的に首を振りかけた。そのとき、胃が小さく鳴った。聞こえたかもしれない。紬はタオルを握り締めた。「……少しなら」「苦手なものや、食べられないものは」「ありません」怜司は近くにいたスタッフに、スープとパンを頼んだ。それから水の入ったグラスを紬の前へ寄せる。「急がなくて大丈夫です」何を、と聞き返しそうになった。食べることなのか、話すことなのか。怜司は携帯電話を取り出したが、画面を一度見ただけで伏せた。紬の事情を尋ねることもなく、水を一口飲む。沈黙に耐えられなくなったのは、紬のほうだった。「あの。お仕事中だったんじゃ」「今日は、もう終わりです」「でも、帰るところでしたよね」「ええ」引き留めている。紬が膝掛けを外しかけると、怜司の視線が動いた。「まだ、食事が来ていません」「こんなにしていただく理由が、ないので」言ってから、きつい言い方になった

  • あの日、あなたが選ばなかった私へ   第1話 雨の底

     紙袋の底が抜けたのは、駅前の信号を渡り終えたときだった。 濡れた歩道に、エプロンと着替えが落ちた。丸い缶が転がり、街路樹の根元にぶつかって止まる。 朝倉紬は、しばらくそれを見ていた。 青信号の音が終わる。背後で車が動き始める。 拾わなければ、と思うのに、膝を曲げるだけの力が出なかった。 缶の蓋が少し開いている。 初めて給料をもらった日に買った、クッキーの型が入っていた。花と星と、小さな鳥。いつか自分の店で使いたくて、働く場所が変わっても持ち歩いてきたものだった。 紬はようやくしゃがみ、缶を拾った。 中に雨水が入っていた。「……よかった」 型は、全部ある。 そうつぶやいてから、自分がおかしくなったような気がした。 仕事も、住む場所もなくなった。 それなのに、こんなものが残っていることに安堵している。 エプロンについた砂を払い、破れた袋を抱え直した。片手では持てず、胸に押しつける。冷たい水がコートの内側まで染み込んだ。 今朝までは、帰る部屋があった。 小さな菓子店の二階。古い建物で、冬は窓際がひどく冷えたけれど、階下で焼き上がる生地の匂いが好きだった。 店主が入院し、店を閉じることになったのは先月だ。建物も手放すと聞いていた。 今日が退去の日だということも、わかっていた。 次の仕事が見つかると思っていた。住み込みの求人に、ひとつくらいは採用されるだろうと。 甘かったのだと思う。 携帯電話が震えた。 紬は軒先に寄り、濡れた指で画面を開いた。『ごめんね。やっぱり今夜は難しそう』 泊めてもらう相談をしていた知人からだった。 少しだけ画面を見つめてから、返信を打った。『大丈夫です。急にお願いしてごめんなさい』 送って、電源を落とした。 充電は、あとわずかしかなかった。 財布の中身は三千四百二十円。 明日、面接先へ行く交通費を残さなければならない。 紬は顔を上げた。 通りの向こうに、ホテルの明かりが見えた。玄関前には屋根があり、端のほうなら雨を避けられそうだった。 少しだけ。 袋を持ち直す間だけ、借りよう。 そう自分に言い聞かせ、足を向けた。   *** 玄関から離れた柱の陰は、雨がほとんど当たらなかった。 紬は荷物を足元に置き、かじかんだ手を握った。 ガラスの向こうで、花が飾られている。 磨かれ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status